貝原益軒 人となり

福岡城内で生まれる

「養生訓」で有名な貝原益軒は筑前・福岡藩の儒学者、本草(中国古来の薬物)学者です。大坂夏の陣から15年、江戸時代初期の寛永7年(1630年)12月17日、福岡藩士・祐筆の貝原寛斎の末っ子五男として、福岡城内の東邸で生まれました。

30歳前までは苦難の半生

 博多、飯塚、糸島などと転居しながら庶民や自然の中で多感な時代を過ごし、父、兄たちの薫陶を受けて成長。19歳の時、(家老栗山大膳と黒田騒動を起こすなど)剛果峻烈な気性の2代藩主忠之に仕えるも怒りにふれて2年で免職。長崎遊学などを経た7年後、温厚篤実の3代藩主光之に招かれ、復職します。

復職~藩の中心学者へ

 以降、藩の中心学者として「黒田家譜」「筑前国続風土記」などを著す一方、江戸・京都をはじめ全国の名高い学者と交流し、理系・文系こだわらず、医学、本草学(薬学)、経学(儒教の研究)、民俗、歴史、地理、教育学など多方面に知識を広げ深めていきました。

万学の祖、日本のアリストテレス

 その多面的な知識の広がりは江戸末期、日本を訪れたシーボルトから古代ギリシアの哲学者、万学の祖とされるアリストテレスになぞらえて、「日本のアリストテレス」と称賛されたほどです。

40歳結婚。71歳辞職、80歳著作

 40歳目前に結婚。71歳で辞職を許されるまで、学識・見識で藩主に応えました。辞職後は著作に傾注し、80歳を過ぎても「大和本草」「和俗童子訓」「養生訓」などを著し、著書は生涯で60部270余巻に達しました。

旅好き。京都、江戸、長崎へ

 益軒は旅好きで公私合わせて、京都へ24回、江戸へ12回、長崎へ5回行き、高名な学者たちと交流し、見聞を広めました。歩くのが好きで、ウオーキング健康法の先駆者かも知れません。心身の調和と生活習慣にも目を配りました。

大半を「損軒」で生き、「益軒」改号は78歳

 ところで、「益軒」の号があまりに有名ですが、最初は「損軒」と号して人生の大半を過ごし、「益軒」に改号したのは晩年の78歳頃とされています。「損から益」への改号。その意図には興味をそそられます。

22歳の年の差、45年添い遂げる

 結婚は益軒39歳、東軒夫人17歳で結婚。22歳の年の差だったが、仲睦まじく、45年間連れ添った。益軒は好奇心旺盛で、東軒夫人にもいろいろ教えるなど教育熱心でした。共に病弱から健康長寿を果たし、夫婦相和し、楽しく、日々の喜びを味わいました。まさに二人三脚の人生の達人と言えるかも知れません。

 東軒夫人が62歳で亡くなると、益軒も翌年、84歳で亡くなりました。

貝原益軒略年譜

 旺盛な好奇心で藩の内外を歩き抜き、学友と交流した益軒その日常の動きが垣間見られる略年譜は井上忠著「貝原益軒」(吉川弘文館)に24頁にわたって詳しく掲載されています。目で追うと、行間から益軒の日々が立ち昇ってきます。
 この頁の略年譜は2014年、福岡市博物館で開催した特別展「益軒・南冥と筑前の学者たち」の解説リーフレットに掲載した年表(リンク)を元に作成しました。

世界が注目する貝原益軒

 1994年、「東アジアの伝統文化国際会議」が福岡市で開かれ、初日のシンポジウム「貝原益軒を考える」で、米コロンビア大学名誉教授、ウィリアム・セオドア・ドバリー氏が「世界的評価を受ける貝原益軒」と題して基調講演しました。その時の喜びを、主催者の岡田武彦・九州大学名誉教授は「郷土の誇り健康の父 貝原益軒を考える大集会」と銘打っています。
 また、江戸時代、来日したシーボルトは「益軒はギリシャのアリストテレスに勝るとも劣らない大学者」と絶賛したと伝わっています。益軒が「日本のアリストテレス」「東洋のアリストテレス」と言われる所以です。

作成者ドバリー, W・T
De Bary, William Theodore
所属機関名:コロンビア大学名誉教授
本文言語日本語
出版者九州大学中国哲学研究会
発行日1994-10-10
収録物名中国哲学論集
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