養生訓の里ネットワーク発足の記者発表

養生訓の里ネットワーク発足の記者発表を2024年12月11日、福岡市役所市政記者室で行いました。ネットワーク準備委員会の原寛会長、安藤文英副会長、久保千春委員、小柳左門委員、藤野博史事務局長が出席しました。

全世代の養生訓

 益軒は、養生は幼少より高齢に至るまで行うものとしています。「子どものための」「若い人のための」「女性のための」「働く人のための」「シニアのための」と、「全世代のための」養生訓を掲載します。

現在、準備中です。

・子どものための養生訓

・若い人のための養生訓

・女性のための養生訓

・働く人のための養生訓

・シニアのための養生訓

カテゴリー 実践!養生訓 | 記事一覧

九州大学附属図書館 九大コレクション

現在、準備中です。

作成者ドバリー, W・T
De Bary, William Theodore
所属機関名:コロンビア大学名誉教授
本文言語日本語
出版者九州大学中国哲学研究会
発行日1994-10-10
収録物名中国哲学論集
20
作成者古賀 京子 
所属機関名:九州大学医学図書館相互利用係
本文言語日本語
出版者九州大学附属図書館
発行日2023-09-01
収録物名九州大学附属図書館研究開発室年報
2022/2023
責任表示貝原, 篤信(益軒) 編
本文言語日本語
大きさ22.9×15.6cm
巻冊数1-8、4冊
形態和漢装
出版者永田, 調兵衛
出版年1713
責任表示貝原益軒
本文言語日本語
大きさ15.2×29.4
形態切紙(継)
注記御家譜に附紙仕ること、一昨日御使で下された一冊を返却、全三冊御請取成さるべき旨、「大学衍義」全四十冊取寄置いているので、明日に取りに下さるべき旨/竹田助大夫
責任表示貝原益軒
本文言語日本語
大きさ15.7×33.1
形態継紙
注記続風土記を十四、五日此受けとすること、御家譜公本三冊を使いに渡した事/竹田助大夫
責任表示貝原久兵衛
本文言語日本語
大きさ15.7×36.6
形態切紙(継)
注記御家譜二冊采納につき、餘巻遺わすべき旨/竹田助大夫
責任表示貝原久兵衛
本文言語日本語
大きさ15.9×31.2
形態切紙
注記小学章句を人が望んでいることをおっしゃって下さい。病気にて書笥が見わけられない旨。/竹田助大夫

●所在地/福岡市西区元岡744

福岡城東邸 益軒の生誕地

●所在地/福岡市中央区城内

 大坂夏の陣から15年、江戸時代初期の寛永7年(1630年)12月17日、福岡藩士・祐筆の貝原寛斎、妻ちくの末っ子五男として、福岡城内の東邸(現・福岡市中央区城内)で生まれました。通称ははじめ助三郎、後に久兵衛。諱(いみな)を篤信、字(あざ)を子誠。号は損軒で、晩年に「益軒」と改号しました。東邸は二の丸東付近の家老屋敷あたり。同屋敷の周りに祐筆ら家来が住んでいたと思われる。益軒の父も祐筆だったらしい。
 福岡城は黒田如水・長政父子が慶長6年(1601年)から7か年を費やして築城し、韓国の晋州城を象ったものだと伝えられています。鶴が両翼を連ねて舞っているようだとして「舞鶴城」と呼ばれてきました。地元には今も、舞鶴の地名が残っています。

益軒、学習地の碑

●所在地/福岡県飯塚市八木山2249

 父寛斎は益軒が生まれた翌寛永8年(1631年)年、博多片原町に、同13年(1636年)、博多袖の湊(現・博多築港)に、同14年(1637年)には福岡の東方3里、八木山峠(現・飯塚市)の知行所に一家転住します。益軒8歳の時でした。益軒は四方、山に囲まれた侘び住まいで11歳まで3年を過ごします。そこに貝原益軒学習地の碑が建っています(福岡県飯塚市八木山2251)。
 幼少から利発で、独学で文字を覚え、書を読み、一方、転居しながら庶民や自然の中で多感な時代を過ごし、父、兄たちの薫陶を受けて成長しました。益軒の原点の一つを作ったところかも知れません。
 その後、父に従って福岡・新大工町、怡土郡伊原村に赴いたのをはじめ、薬院、唐人町、荒津山(現・西公園)に転居を繰り返し、慶安元年(1648年)19歳の時、2代藩主忠之に御納戸御召料方として、初めて召し抱えられました。しかし、怒りにふれて2年で免職。以後7年間、20代のほとんどを浪人暮らしで送ります。
 明暦2年(1656年)、3代藩主光之に招かれ、復職します。文治主義体制へ転換を遂げる藩政、取り立ててくれた藩主、時代の変化を得て、不遇の時代を脱し、益軒の活躍が始まります。

人物叢書103「貝原益軒」井上忠

人物叢書103「貝原益軒」井上忠 
昭和38年(1963年)初版/吉川弘文館

 九州帝国大学国史科卒。西南学院大学教授、福岡大学教授を歴任。「戦時中、分家の貝原守一氏宅で益軒の日記を見せていただいて興味を抱いたのが(益軒との出会いの)始まりで、戦後は本家の貝原真吉氏宅へ数十日~現在までに百日に及ぶだろう~通って資料を博捜した」というくらい、若い頃から貝原本家・分家に通い、益軒史料全7冊を上梓。生涯を貝原益軒研究に捧げた。ミュージカル歌手、井上芳雄さんはお孫さん。

岡田武彦全集23「貝原益軒」岡田武彦

岡田武彦全集23「貝原益軒」岡田武彦 
平成24年(2012年)初版/明德出版社

 岡田は兵庫県姫路市生まれ。九州帝国大学支那哲学史専攻(当時)卒。九州大学教授、米国コロンビア大学客員教授を経て、九州大学名誉教授。平成6年(1994年)4月、岡田が実行委員長として国内外の学者60数名を集め、福岡市で開催した「東アジアの伝統文化国際会議」に関連し、シンポジウム「郷土の誇り健康の父 貝原益軒を考える大集会」も開いた。平成16年(2004年)逝去。同書は没後、後学・森山文彦(東洋の心を学ぶ会世話人、岡田武彦先生追悼文集刊行会代表)らにより出版された。

貝原東軒夫人誕生地の碑

●所在地/福岡県朝倉市上秋月(浦泉69-2)

 益軒の妻、東軒は承応元年(1652年)、支藩秋月藩の藩士、江崎広道の娘初として、生まれました。東軒夫人生誕地の碑が福岡県朝倉市上秋月にあります。秋月は「筑前の小京都」と言われる桜(杉の馬場通り)と紅葉(黒門周辺)の名所です。
 江崎家は広道の父が郡奉行、広道は馬廻り役のち郡奉行・代官頭を務め、その弟道達は御医師で江戸在府中に益軒と知り合い、縁談が生まれたといいます。益軒・東軒は寛文8年(1668年)6月26日、益軒39歳、初(後の東軒夫人)17歳で結婚します。

貝原益軒屋敷跡

●所在地/福岡市中央区荒戸1–11–10

 結婚翌年の寛文9年(1669年)11月25日、40歳になった益軒は荒津東浜(現・福岡市中央区荒戸)に屋敷を与えられ、翌年2月に転居し、生涯の住居とした。現在はマンション「大濠ハウス」4階建てが建っています。その玄関先に「貝原益軒屋敷跡」の碑と案内板が建っています。福岡城址から程近い、西公園の南側下です。
 益軒・東軒は夫婦仲が良く、この屋敷で楽器演奏や書、旅行など、何事も夫婦相和し、一緒に楽しみました。益軒は東軒を投薬治療するなど、蒲柳の妻を支え、病弱から共に健康長寿を果たしました。二人して、まさに人生の達人と言えるのかも知れません。

金龍寺 夫妻並んで永眠

●所在地/福岡市中央区今川2–3–23

 正徳3年(1713年)12月、東軒が62歳で亡くなると、益軒も後を追うように翌正徳4年(1714年)10月5日、84歳で永眠しました。二人は福岡市中央区今川の貝原家菩提寺、曹洞宗「金龍寺」の墓所に永眠しています。その墓石は一区画の中に、同じ大きさで並び立ち、夫妻の人生へと思いを誘われます。
 墓所の横に台座に載った益軒の銅像があります。また、境内にかつて同寺に寄寓し、執筆にあたった明治の文学者、倉田百三の文学碑もあります。

中村学園大学メディアセンター 貝原益軒アーカイブ

 江戸時代の偉大な儒者であり、自然科学の分野にも幅広く通じていた貝原益軒(寛永7(1630)年~正徳4(1714)年)の墓は夫人(貝原東軒)の墓とともに本学からほど近い福岡市中央区今川の金龍寺にあります。
 益軒が85年の生涯に残した数多くの著作の中でも、本草学・医学関係の大和本草、花譜、養生訓などや、教育論としてもとらえることのできる大和俗訓、和俗童子訓などは、栄養科学部や教育学部を設置する本学にとって大変興味深いものであり、益軒を学ぶとともに関係資料を調査、収集することは意義あることと言えます。

●所在地/〒814-0198 福岡県福岡市城南区別府5-7-1
 TEL:092-851-2531(代表) FAX:092-841-7762

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