福岡城東邸 益軒の生誕地

●所在地/福岡市中央区城内

 大坂夏の陣から15年、江戸時代初期の寛永7年(1630年)12月17日、福岡藩士・祐筆の貝原寛斎、妻ちくの末っ子五男として、福岡城内の東邸(現・福岡市中央区城内)で生まれました。通称ははじめ助三郎、後に久兵衛。諱(いみな)を篤信、字(あざ)を子誠。号は損軒で、晩年に「益軒」と改号しました。東邸は二の丸東付近の家老屋敷あたり。同屋敷の周りに祐筆ら家来が住んでいたと思われる。益軒の父も祐筆だったらしい。
 福岡城は黒田如水・長政父子が慶長6年(1601年)から7か年を費やして築城し、韓国の晋州城を象ったものだと伝えられています。鶴が両翼を連ねて舞っているようだとして「舞鶴城」と呼ばれてきました。地元には今も、舞鶴の地名が残っています。

益軒、学習地の碑

●所在地/福岡県飯塚市八木山2249

 父寛斎は益軒が生まれた翌寛永8年(1631年)年、博多片原町に、同13年(1636年)、博多袖の湊(現・博多築港)に、同14年(1637年)には福岡の東方3里、八木山峠(現・飯塚市)の知行所に一家転住します。益軒8歳の時でした。益軒は四方、山に囲まれた侘び住まいで11歳まで3年を過ごします。そこに貝原益軒学習地の碑が建っています(福岡県飯塚市八木山2251)。
 幼少から利発で、独学で文字を覚え、書を読み、一方、転居しながら庶民や自然の中で多感な時代を過ごし、父、兄たちの薫陶を受けて成長しました。益軒の原点の一つを作ったところかも知れません。
 その後、父に従って福岡・新大工町、怡土郡伊原村に赴いたのをはじめ、薬院、唐人町、荒津山(現・西公園)に転居を繰り返し、慶安元年(1648年)19歳の時、2代藩主忠之に御納戸御召料方として、初めて召し抱えられました。しかし、怒りにふれて2年で免職。以後7年間、20代のほとんどを浪人暮らしで送ります。
 明暦2年(1656年)、3代藩主光之に招かれ、復職します。文治主義体制へ転換を遂げる藩政、取り立ててくれた藩主、時代の変化を得て、不遇の時代を脱し、益軒の活躍が始まります。

貝原東軒夫人誕生地の碑

●所在地/福岡県朝倉市上秋月(浦泉69-2)

 益軒の妻、東軒は承応元年(1652年)、支藩秋月藩の藩士、江崎広道の娘初として、生まれました。東軒夫人生誕地の碑が福岡県朝倉市上秋月にあります。秋月は「筑前の小京都」と言われる桜(杉の馬場通り)と紅葉(黒門周辺)の名所です。
 江崎家は広道の父が郡奉行、広道は馬廻り役のち郡奉行・代官頭を務め、その弟道達は御医師で江戸在府中に益軒と知り合い、縁談が生まれたといいます。益軒・東軒は寛文8年(1668年)6月26日、益軒39歳、初(後の東軒夫人)17歳で結婚します。

貝原益軒屋敷跡

●所在地/福岡市中央区荒戸1–11–10

 結婚翌年の寛文9年(1669年)11月25日、40歳になった益軒は荒津東浜(現・福岡市中央区荒戸)に屋敷を与えられ、翌年2月に転居し、生涯の住居とした。現在はマンション「大濠ハウス」4階建てが建っています。その玄関先に「貝原益軒屋敷跡」の碑と案内板が建っています。福岡城址から程近い、西公園の南側下です。
 益軒・東軒は夫婦仲が良く、この屋敷で楽器演奏や書、旅行など、何事も夫婦相和し、一緒に楽しみました。益軒は東軒を投薬治療するなど、蒲柳の妻を支え、病弱から共に健康長寿を果たしました。二人して、まさに人生の達人と言えるのかも知れません。

金龍寺 夫妻並んで永眠

●所在地/福岡市中央区今川2–3–23

 正徳3年(1713年)12月、東軒が62歳で亡くなると、益軒も後を追うように翌正徳4年(1714年)10月5日、84歳で永眠しました。二人は福岡市中央区今川の貝原家菩提寺、曹洞宗「金龍寺」の墓所に永眠しています。その墓石は一区画の中に、同じ大きさで並び立ち、夫妻の人生へと思いを誘われます。
 墓所の横に台座に載った益軒の銅像があります。また、境内にかつて同寺に寄寓し、執筆にあたった明治の文学者、倉田百三の文学碑もあります。

貝原益軒 人となり

福岡城内で生まれる

「養生訓」で有名な貝原益軒は筑前・福岡藩の儒学者、本草(中国古来の薬物)学者です。大坂夏の陣から15年、江戸時代初期の寛永7年(1630年)12月17日、福岡藩士・祐筆の貝原寛斎の末っ子五男として、福岡城内の東邸で生まれました。

30歳前までは苦難の半生

 博多、飯塚、糸島などと転居しながら庶民や自然の中で多感な時代を過ごし、父、兄たちの薫陶を受けて成長。19歳の時、(家老栗山大膳と黒田騒動を起こすなど)剛果峻烈な気性の2代藩主忠之に仕えるも怒りにふれて2年で免職。長崎遊学などを経た7年後、温厚篤実の3代藩主光之に招かれ、復職します。

復職~藩の中心学者へ

 以降、藩の中心学者として「黒田家譜」「筑前国続風土記」などを著す一方、江戸・京都をはじめ全国の名高い学者と交流し、理系・文系こだわらず、医学、本草学(薬学)、経学(儒教の研究)、民俗、歴史、地理、教育学など多方面に知識を広げ深めていきました。

万学の祖、日本のアリストテレス

 その多面的な知識の広がりは江戸末期、日本を訪れたシーボルトから古代ギリシアの哲学者、万学の祖とされるアリストテレスになぞらえて、「日本のアリストテレス」と称賛されたほどです。

40歳結婚。71歳辞職、80歳著作

 40歳目前に結婚。71歳で辞職を許されるまで、学識・見識で藩主に応えました。辞職後は著作に傾注し、80歳を過ぎても「大和本草」「和俗童子訓」「養生訓」などを著し、著書は生涯で60部270余巻に達しました。

旅好き。京都、江戸、長崎へ

 益軒は旅好きで公私合わせて、京都へ24回、江戸へ12回、長崎へ5回行き、高名な学者たちと交流し、見聞を広めました。歩くのが好きで、ウオーキング健康法の先駆者かも知れません。心身の調和と生活習慣にも目を配りました。

大半を「損軒」で生き、「益軒」改号は78歳

 ところで、「益軒」の号があまりに有名ですが、最初は「損軒」と号して人生の大半を過ごし、「益軒」に改号したのは晩年の78歳頃とされています。「損から益」への改号。その意図には興味をそそられます。

22歳の年の差、45年添い遂げる

 結婚は益軒39歳、東軒夫人17歳で結婚。22歳の年の差だったが、仲睦まじく、45年間連れ添った。益軒は好奇心旺盛で、東軒夫人にもいろいろ教えるなど教育熱心でした。共に病弱から健康長寿を果たし、夫婦相和し、楽しく、日々の喜びを味わいました。まさに二人三脚の人生の達人と言えるかも知れません。

 東軒夫人が62歳で亡くなると、益軒も翌年、84歳で亡くなりました。

貝原益軒略年譜

 旺盛な好奇心で藩の内外を歩き抜き、学友と交流した益軒その日常の動きが垣間見られる略年譜は井上忠著「貝原益軒」(吉川弘文館)に24頁にわたって詳しく掲載されています。目で追うと、行間から益軒の日々が立ち昇ってきます。
 この頁の略年譜は2014年、福岡市博物館で開催した特別展「益軒・南冥と筑前の学者たち」の解説リーフレットに掲載した年表(リンク)を元に作成しました。

世界が注目する貝原益軒

 1994年、「東アジアの伝統文化国際会議」が福岡市で開かれ、初日のシンポジウム「貝原益軒を考える」で、米コロンビア大学名誉教授、ウィリアム・セオドア・ドバリー氏が「世界的評価を受ける貝原益軒」と題して基調講演しました。その時の喜びを、主催者の岡田武彦・九州大学名誉教授は「郷土の誇り健康の父 貝原益軒を考える大集会」と銘打っています。
 また、江戸時代、来日したシーボルトは「益軒はギリシャのアリストテレスに勝るとも劣らない大学者」と絶賛したと伝わっています。益軒が「日本のアリストテレス」「東洋のアリストテレス」と言われる所以です。

作成者ドバリー, W・T
De Bary, William Theodore
所属機関名:コロンビア大学名誉教授
本文言語日本語
出版者九州大学中国哲学研究会
発行日1994-10-10
収録物名中国哲学論集
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